民のかまどはにぎはひにけり

見えないものの検証と、庶民のつぶやき(不定期更新)

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自己紹介

抱き茗荷

Author:抱き茗荷
意識の働きや自身のルーツ探しを課題としています。

つぶやき

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世界最強の聖地

若い時分は用事や作業が済んで家に帰るなり『ちょっと一服するか』と居間に座りテレビをつける習慣があった。本日は連休最終日という事もありゆっくり過ごすわけだが、午前中に用事を済ませ「たまにはテレビでもゆっくり眺めてみるか」とつけてはみたが、やはり面白くないどころか、むしろ有害指定してもよいレベルまでに落ちていた。
これは恐らく毎日視聴している方には気づかないのだろうな、とテレビ漬けになっている人を案ずるところまできてしまっている。

新聞も見ずこんな状態なので、私は現在の時事問題はあまり詳しくない。
しかしながら、ネットのお気に入りやツィッターのフォローしている方々から深層を掘り下げた情報が逐一入ってくるので非常に助かっていると共に、有害メディアに目を通す事もないので気分を害す事がそう多くない。

が、ネットを眺めているうちに前々から気にしている事が現実となり始めたツィートが入ってきた。



東海のアマちゃんのリツィートが飛び込んできた(私はフォローしていない、地震が来る事を望んでいるようにしか見えないから)
ついに神道の中に入り込んだもののけが正体を顕した。随分と拙速である。

上記の「これからは寺を回る」「もうお賽銭しない」 というのは金で神仏を動かそうとする勝手気儘な方の浅はかな主張なのでどうでもよい。
問題は改憲を進めようとする神道勢力の中身が何であり、目的は何かという事だ。

勿論、今日本という国家は戦争がしたくてウズウズしているので、軍産複合体の傀儡団体「日本会議」を主体として利用し、愛国を標榜し“私達日本大好き”PRに意を削いでいる。(本当は「日本“対策”会議」じゃないのかい?)

この拙速ともとれる自称愛国者だかは何を焦っているのか?というのは以下のリンクにヒントがいっぱい散りばめられている。

低下低下=てげてげ

さて、時として上記のように政争の具として利用される宗教だが、神道は本来宗教ではなく、名の通り『道』だ。神道にはまつろうだけなら教義はなく、あれはダメ、あれはこうすべき、といったものはない。人として最低限の所作さえあれば賽銭を入れなくても誰も咎めない。

宗教と言える神道とは、信仰心を手段とし思想を植え付け上納金を吸い上げる仕組みがあるところだ。
そして他にも現在神道最高の聖地扱いされている伊勢とアマテラスオホミノカミの位置の考え方、この位置は4次元的な意味とは異なる。これを心の中心に据えれば宗教に成り替わる。

それならば、世界最強の神、世界最強のパワースポットはどこか?

答えは「人の数だけある」が正解。
その神、そのパワースポットとは自分であり自宅にあるさらに重要なのは参拝の順序、これがキモだ。何かを決意・実行・完成させようとするとなると教義ではないが順序が発生する。料理やモノづくりと同じだ。

以下に神道を例に挙げた手順を記す。私は他の宗教や信条はよくわからないが、正の順序はみな以下に共通すると思う。

① 最強の聖地「自宅」を宮とし、家族と共に清める事、これは儀式を行うという事では無い。きれいに保つだけの話。塩を撒いたり幣を振り回すのは一番最後だし別にしなければならない事はない。
② ご先祖様にご挨拶。
③ 産土神や氏神へ参拝。
④ 自分が好きだと感じた聖地に行く。勿論これは別に神社仏閣とは限らない。

※科学的根拠は不明、実践・実証による。よって唯物論者は信じるに値しない。

多くの人は自らの信じた聖地へ神様に逢い祈りに行くのが目的だろう。
しかし、私幣禁断、自らの決意表明する場とし上記の手順を守らなければ神に逢う事はない(違えればむしろ状況が悪化する)。そしてその神様とは個別の人格では無いという事を理解しなければならない。たぶん神様というイメージでみんなパッと頭に浮かぶのは以下の様な感じではなかろうか?

kamisama.png

勿論こんな人出てこない(笑)

神様とは偶然性の高いところに及ぶ力そのもの、例えば人との出会いがそれに当たる。どんな人と出会ったかで人の人生は大きく変わる。努力もしないで得た泡銭なんかもそうだ(これは自分に使うと金額相当のしっぺ返しを食らう)。

今我が国は、家族や親族、ご先祖を蔑ろにし愛国心から事を始めようとしている。これを良しとする者はそのまま行けばいいが、全てはその者に帰ってくる事、自分の蒔いた種は自ら刈り取るだけである。

いろいろ書いたが、神社や神道の評判はどうでもいいが無くしてはならない。どんな都会の喧騒にも侵されない聖域がなければその地域は息が詰まる、そんな意味でも浄化の機能を果たしている。鎮守の杜には何の罪もなく、穢れを呼ぶのはいつも人である。そんな人と自然の真ん中にあり、両者を和える役割を担っている神社はとても大切な存在でありなくしてはならないと強く感じるのだ。
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幼き頃の土曜の夜の自問自答

今は視ることの少なくなってきたテレビの話です。
子供の頃、土曜の夜といえば我が家では「日本むかし話→クイズダービー」という順番でチャンネルを変えることなく視ておりました。今考えますととてもいい時代だったなぁ、と思います。

「日本むかし話」は常田富士夫さんと市原悦子さんが声優をやっておりましたが、子供ながらにこのお二人の演技力に感動していた記憶があります。人としてやってはいけない事、自然に対して侵してはいけない部分をこの番組には教えられたものです。下手に学校に行くより学ぶものは全然多かったと思います。
この民話をベースにしたむかし話には強制力など勿論ありません。それを見て考えさせられる、そして自分自身はどう行動していこうか、という動機を与えられます。

「クイズダービー」は私が今まで見てきたクイズ番組の中では一番難しい問題が多かったと感じます。「これは『何』でしょう?」ではなく「これは『なぜ』でしょう?」形式や、「なぜこの答えなのだ?」と考えさせられる問題が多かったからでしょうか。『何』は知っているか知らないか、または覚えているか覚えていないか、を問われているだけですが、『なぜ』は記憶や経験といった既知の事に依存する事は出来ず、自ら『なぜなら…』と考えなければなりません。その人自身の問題解決能力を問われますので学力はアテにならないわけです。だから篠沢教授や北野大さんらは“倍率”が高かったのでしょう(笑)

上記2番組に共通する事は自問自答です。
自問自答は問題解決能力を身につける一番の薬です。これを身につけないと抗うつ剤、向精神薬の餌食になります。

自問自答にはルールが存在します。それはヒトのせいにしない事です。
「なぜ○○という問題が発生したか」→「それは○○さんが○○したから」という発想は問題解決に結び付くわけがありません。なぜなら問題とは、人の中には存在しないからです。良い悪い・高い低いというのは基準あってのものですが、人に貴賤というものは存在せず、個々に主観が存在するからです。もし人に問題があると考えるのならば、それはひとの心に土足で侵入して勝手に自分の基準を線引きしているということになります。「罪を憎んで人を憎まず」とはこれに対する戒めではと感じます。

一見、人に原因があるような事でも、その人がなぜそのような考えに至ったのか?ということまで考えますと、教育や躾の仕組みとまで辿りつきやすいです。仕組みとは人が作りあげるものですが、人は完璧ではないのでこの世に生まれてくるわけで、失敗はつきもの(憑き物)です。その失敗は次のよりよいものを作り出すための材料になるので責めるものではなく、正していくものなのです。

人のせいにして自分の感情をスッキリさせる事は問題解決でもなんでもなく、ただの攻撃です。人を排除したからといって問題は残るわけですから最終的に問題は本人が考えざるを得ないわけです。そうなりますと、人のせいにする癖がついてますと自分を責め始めますので心が病んでいくわけです。今日の凶悪犯罪や自殺の増加はここに原点があります。
国会を解散したり、企業がリストラしても一時的にしかよくならないのも、この人を排除する考え方に問題があるからだと感じます。

自問自答は自分を追い詰めますが、自分を責めなければ必ず道は啓けるものです。

日本むかし話→クイズダービーと考えた後には、「8時ダヨ全員集合!」が待ってます。



空中携挙?間に合ってます。

ネットを散策しますと、よく「銀河連邦」だとか「宇宙人」とかいう話が眼につきます。書店でもそういうコーナーがあり、そういう類の書籍は隅っこの陰に隠れた場所に陳列されています。トンデモ系のものは興味はそそるものの、どれもこれも考え方が「空中携挙」系のものばかり…。世の中が混沌とし突破口が見えなくなると、前後左右(平面)でなく天(立体)を頼るようです。それはきっと宇宙が無限な空間であり未知の世界であるから、そこに何かを期待しているのかも知れません。
この未知の部分に期待して毎回良いように利用されている顕著な例が選挙ではないでしょうか。離合集散の新党に安易に食い付き投票し、蓋を開ければいつか来た道…というのがパターンではないかと思います。

空中携挙により差し伸べられる手、その手は紛れもなく助けを求めた者の魂を抜く手です。
魂を抜かれてしまったその体からは人格はほとんど失われています。空中携挙の手の先にある胴元の事を悪く言われては怒り、胴元に裏切られては怒るという別の憑き物がかわりに入ります。乗っ取られたその体は自分のものではないからいいや、なんて思っている憑き物に粗末に利用されて病(やまい)に冒されてしまうというわけです。

ついでですが、この病(やまい)というコトバ、タマコトで解釈を試みました(あくまでも個人的な解釈です)

病(やまい)…イアマイ→意甘い
※ヤ行は父音が唯一イの段である

自分の意志を他人に委ね何かに期待する事は、病という現象をもって考える時間を与えられてしまうという事でしょうか。

本来神というものは人を成長させる為に、常に乗り越えられる範囲での負荷を与え続ける存在であると思います。それを乗り越える事で今まで苦労と思っていたものがそう感じなくなった、その気持ちそのものが神からの贈り物ではないでしょうか。

「灯台もと暗し」、まずは天を仰がず点(自分自身)に救いを見出すのが本来の立ち位置ではないかと感じます。


アセンション考察

マヤ暦云々で盛り上がる歳の暮れ、皆様いかがお過ごしでしょうか。
2012年滅亡説で恐怖を煽りお金を稼いだ方は、今後の因果が心配なところです。

他にも「フォトンベルト」に「アセンション」と英語が並んだ書籍がこの2012年に向けて発刊され続けてきました。私も立ち読みで何冊か手に取り読ませていただきました。
なかでもアセンションに関しては次元上昇や魂の選別といった目に視えない現象との事なので、特にネットではオカルト好きや日常生活に於いて不満しか言わないような人間の逃げ場となっていたようです。
実際にそのような世界があるかどうかは知る由もないので何が本当かはわかりませんが、気にいらないのは外部注入型の変化に終始している点であります。
これを喜んで望む事は、ただの他力本願、依存心丸出しで、カルト宗教に入っている人間となんの変わりもありません。これを次元上昇というのなら、どの位置から見て語っているのか推測がつきます。
この外部注入型の変化を求める方の特徴としまして、仏壇や神社の前で自分の事ばかりお願いしています。この願い事という「期待」をするから落胆したり神仏を恨むという、いらぬ感情と結果を自分で産み出している事に気づかねばなりません。

「神は自らを助くものを助く」「人事を尽くして天命を待つ」といったコトバは、この外部注入型の変化を求める方にはうってつけです。次元の変化は結果であって、要因は自分自身の行動にあるものです。

自らアセンションしようと努力した人にこそ、外部からくる力が生きてくるというモンです。

主客の渡し

ブログを開設して本日で丸1年経ちました。このようなブログでも見ていただける方がおられるというのは、とても励みになり有難い限りです。

昨年は震災により意識の変化が発生し、自己の中に燻っていた想いに光が当たりそれが表面化した年でありました。ただ、その想いが表現する場所を求め彷徨っていたところで、ふとブログを書こうと突き動かされたのが一年前の今日にあたります。自分の想いを「文字」という目に視えるカタチに表現する事で、自分自身を曝け出す事による恥ずかしさは拭いきれませんが、客観的に自分を見つめる為のとても良きツールであります。恥をかきたくないのならただの日記帳でいいのでしょうが、ブログを公開する事で、客観→主観という危険な方向性が常であるインターネットに対し、闘いを挑んでいる気もします。

しかし主観と客観という二元的な世界はもう終わりかも知れない、となんとなく感じています。主観と客観が結ばれた線をもう一人の自分が見つめること、つまり主客一体である事を理解してそれを実践していく事がこれからの意識の方向性ではないかと思うのです(勿論先立つべきは主観)。量子の話に近いですが、観測されている自分があり自分の存在が確定するような感覚と申しましょうか。しかしながら自分はそこにいるわけでは無く、観測する側とされる側がセットで「わたし」ではないかと思うのです。(わかりにくいかも知れませんが、これが現状での最大の表現です)

『コトダマ解釈すると、主と客を結ぶ「渡し」と「私」は同意かも知れない』と、キーボードを打ちながら頭の中を過ぎりました。これが真実か、脳内を活性化する為に発生したダジャレかは、今の二元的な「わたし」には知る由もありません。

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