民のかまどはにぎはひにけり

見えないものの検証と、庶民のつぶやき(不定期更新)

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抱き茗荷

Author:抱き茗荷
意識の働きや自身のルーツ探しを課題としています。

つぶやき

家紋「抱き茗荷」~『藤橘源平』は『唐契元ペ』?!~

「八切式姓の法則」という本をご存知でしょうか?

八切止夫文庫より以下引用

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八切史観では、日本人の大半は663年の白村江敗戦時、戦勝国唐進駐軍に古日本女は性の奴隷として辱められ、その私生児は嫡子ではなく庶子として、藤原、奈良、平安時代の奴隷として売買されていた。(中略)

その時の支配階級は源平藤橘であり、

源  元(漢音ゲン=源)モンゴル人
平  ペルシア人(漢音ぺ=平)
藤  唐人・・・藤(漢音トウ=藤)
橘  契丹人(漢音キツ=橘)

天皇以下は在日であった。
在来の日本人はこれらの在日の奴隷として庶民を形成し、支配者である源平藤橘の4支配者の許可がなければHできなかったのである。この時、支配階級(源・平・藤・橘)の女に手を出した在来日本人は首をはねられ、死んでも、ええ女を抱くという肉食系男子の遺伝子は断種させられたのが原因である。
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『藤橘源平』については前にも書きましたが、漢音解釈ではありますが少し興味深いものを感じます。
私自身は平氏と藤原氏が合体した姓を持ちますが、顔が“中東系”でありますので『ペ』の信憑性が自分の中で高くなりました(笑)(「天皇以下は在日であった」の行は、誰が言ってたか忘れましたが、「『日本人』という民族は元々いない」の台詞を思い出します)

ペルシャといえば、過去記事にこんな事を書いた事があります。

家紋「抱き茗荷」~秦氏~より


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聖徳太子といえば幼名は厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)といったが、
この名は母親の穴穂部間人皇女が馬小屋の前で急に産気づき、
その場で産んだために付けられた名前だという伝承がある。
急に産気づいたからといっても、天皇の子供が馬小屋で生まれるはずはない。
もしかしたら、これは秦氏がイエス生誕伝説を持ち込んだものではないか。
母の間人(はしひと)という名も怪しい。間人=波斯人で、
つまりペルシャ人だったという説がある。
中国語で波斯とはペルシャのことだが、これはペルシャ語によるペルシャの発音
「ファルシー」の音訳だ。
『続日本紀』には、奈良時代に波斯人が渡来して居住したという記述があるので
、その説はあり得るかもしれない。もちろん、本当にペルシャ人だったとすれば、
その親である蘇我稲目か、または妻の小姉君 (おあねのきみ)も
ペルシャ人だったことになるが。
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(参考)ペルシア帝国地図↓

orient_persia.gif

ちょっとずつ繋がってきたかなぁ?道を間違えて無ければよいのですが…

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