民のかまどはにぎはひにけり

見えないものの検証と、庶民のつぶやき(不定期更新)

01<< 12345678910111213141516171819202122232425262728 >>03

自己紹介

抱き茗荷

Author:抱き茗荷
意識の働きや自身のルーツ探しを課題としています。

つぶやき

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

標準化の罠に嵌まった大企業

約3か月ぶりの書き込みだ。

この間私は一体何をしていたかというと、自分が抱える仕事をさばきにかかっていたのである。なぜそんなに急いでいたかというと、今勤めている会社を退職する準備を進めていたのだ。

昨年の暮れに「この世から“去る”歳にならないようにせねば…。」と書きこんだのだが、会社から去る歳となったわけなのだ。
ちなみに、12年前の申年も私は別の会社を去った。どうやら申年は自らにとって節目の歳であることが数十年生きて知る事が出来た。

私の勤め先は最近業績が大変よく、この不景気に営業利益は昨年の倍、給料や賞与もグングン上がり、私自身も現在相当な額をいただいている。子会社だが、世界的にも名の売れた企業の子会社なので、恐らく、このまま定年まで勤めれば老後は安泰、孫にも躊躇なくお年玉をあげる事が出来るお爺ちゃんになる事が確定だ。

しかしながら、私の内なる何かはそれを許さなかった。

企業というものは、その規模や組織が大きくなればなるほど人間の制御・統率出来る域を超える。それは国家も同様だ。
そうはいうものの、支配者にはそれをやり遂げる事が求められるし、やり遂げる事がその者達の名誉となる性質があるのでそこに全力を注ぐ。

そこで、必要となるものが「ルール」「標準」「規則」といった統一化(法)したものを手段として用いる。

万物には全てのものに波やバラツキがある。
大きく分けると、人・手法・素材・道具などといったもの全てにそれがある。それら全てにルールを決めバラツキを無くす事を俗に「標準化」とか「スタンダード」という。

道路交通法で言うと、

人…視覚や聴覚、飲酒や麻薬などへの制限
手法…免許制
素材…道路や標識
道具…車検に通る車両

これらを統一する事で、あれだけ多く走っている車がぶつかることなく道路を走れているは多くの人が理解出来るところだ。
そのなかで、唯一法で制限出来ないのが人の気分であり、事故の原因のほとんどはそれであると思う。
車を使う理由は3種類、空間移動時間の短縮、疲労を最小限に抑える事、そして自己顕示のどれかであろう。これを達成する為に人は法を破る事がある為事故が無くなる事はない。

それらのバラツキをなくすには、自動化・固定化・標準化が求められる。簡単に言うとロボットになれという事だ。
プログラム通りに行動せよ、と。
ここに知恵も個性も存在しない。私の内なる何かはそれを良しとしなかったようだ。

知恵が存在しないという事は新しいものは生まれない。
そんな中、残念なニュースが舞い込んだ。

クルマ開発、手仕事の先へ 熟練の成功例を数式で一般化

(以下引用)
 熟練技術者の手仕事に頼ってきた自動車の開発が、大きく変わりつつある。人間による過去の成功例をデータ化し、コンピューター上で主要部品の試作や評価などをこなす。これで浮いた人員や開発費は、次世代エコカーなどの先端研究にまわす。

 2万~3万点の部品でできる自動車の開発は、細分化されたノウハウを持つ技術者たちによる「あうんの呼吸」と、何度も相談を重ねて知恵を絞る「すり合わせ」に頼ってきた

 例えば「低燃費」と「力強い加速」といった相反する性能を両立させるには、何度もエンジンなどの試作機をつくって評価を重ねる。うまくいっても、試作車に載せて想定通りの結果が出なければ、また、前の工程にさかのぼって同じことを繰り返す。

 ただ、車やエンジンの種類は増え、以前より時間もお金も人手もかかるようになった。「エンジン制御だけでも、この10年で10倍は複雑になった。技術者の経験値をもとに試行錯誤するやり方はもう限界」。ホンダ開発部門の大津啓司常務執行役員は語る。

 そのためホンダは、開発の「上流」にあたる設計ではすでに多用されているコンピューター上のシミュレーションを、「下流」の主要部品の試作や試作機の評価などにも広げる「モデルベース開発(MBD)」を本格導入する。

 まず、すり合わせで培った過去の開発の「成功事例」を集めたデータベースをつくる。成功事例は数式にして一般化し、目標とする性能値を入れれば精度の高い設計図が得られたり、確度の高い仮想評価ができたりするイメージだ。


(引用ここまで)

思い上がりも机上の空論もいいとこだ。上記下線部の「成功事例」は手仕事により作られたのに、これからどのように事例を作るというのだろうか。
私は以下のツィートに共感する。



常に新しい知恵を出し続ける姿勢とモノづくりに喜びを感じさせてくれるホンダの姿勢が私は好きだった。
しかし、上記の方針はそれを覆すものであり、現在のF1の不振の原因も恐らくそれだろう。

なんでも数値に出来るというのは確かであるが、それはやった後の結果が数値になっているのだ。
やってもいないことに数値を付ける事は出来ない。それをやろうとするところに人としての尊厳がある事を、特に若い世代には理解してほしい。理解できないのであれば以下の動画を参照していただきたい。

へら絞り



きさげ加工



切削加工


薬漬けにつけるクスリ

病院好き・薬好きは、自分自身が固定した存在と勘違いしているところに誤りがある。

クスリ大好き!


病気のたびに自らの体に投与しているものにも注目していただきたい。化学物質投与を続け、病原菌の力を削ぐやり方だ。(対症療法っていうヤツだったか…)
また自分自身は何も変わっていない為、また同じ病気を繰り返す可能性も秘めている。

しかし本来の健康維持とは、以下の思考である事は3.11後の約5年間自らが実践して確証を得た。

本来の健康維持

投与している図はヨーグルトを示している。これは飯山一郎さんが提唱している豆乳ヨーグルトを一例としてあげさせてもらったものだ。これに限らず免疫をあげるものはたくさんあるし、わざわざ実費と健康保険を使って得体の知れない化学物質を体に入れる必要はないのだ。(ちなみにこの図はメンタルヘルスにも応用できる)
またグラフの波は最初のものと合わせているが、実際は免疫の対策をしていくわけだから続ける事によって強の側へ向かっていくので病気から遠ざかっていく。

免疫強化推移

ガンが進行するとよく『末期ガン』という言葉が使われるが、本質は『免疫力末期』だろうと。インフルエンザだってマスクしてうがい手洗いしていても罹る人は罹る、免疫が弱っているのだから。
これを理解されている方は、免疫が保たれるような生活をしている為上記グラフでいう青い範囲に留まれているので、どんな菌が流行ろうと恐怖に慄く事はないわけだ。


結論として、病気の原因は心身共に自分自身にあり、それらは自責他責をともなうものではないということだ。

問題が起きたら自省し問題解決へ向けてただ前に進むだけでいいだけの話、これに必要なのは『すぐやろう!』という実行力だけでよく、知識はさほど必要ではない。

人間は変動する生き物だという事がわかればその環境に合わせる事。競馬の騎手の足のように馬の動きに合わせ足の関節を柔軟にし力を吸収するような生き方が大切ではないかと想う。

昭和ノスタルジー

テレビやラジオにどっぷり浸かりきっていた昭和生まれの方達は、その番組のオープニングBGMに当時の情景を思いだすのではないだろうか。車でラジオなんて聴いていると時折昔のそのBGMに巡り合い昭和のノスタルジーに浸る時がある。

最近でいうと、亀さんのブログに懐かしきラジオがUPされており、しばし聴きいってしまった。




これを聴いていた頃私はまだ学生で、オールナイトニッポンを2時間聴き通した後、この「いすゞ 歌うヘッドライトOP」を聴きながらラジオつけっぱなしで寝ていたものだ。




このAMのかすれた音質は昭和の代表といっても過言ではないとおもう。なぜなら平成に入り急速にFM放送局が普及しはじめたからだ。

AMはDJの話が主流だったが、FMは音質の良さが際立った事もあり音楽がメインだったように思う。
その音質の良さを一番感じとれたのが(やはり深夜番組だが)長寿番組のジェットストリームではないだろうか?

城達也の渋い声でキザな台詞から始まるこのプログラムは、非日常的な空間を脳内で味わうにはうってつけであった。




こんなにも昔に惹かれるのはなぜだろうか?汚れきってしまった今を浄化しようとしているのか?きっと魂を過去に戻し、我が国の時間軸さえも穢れ薄き頃に戻そうとしているに違いない。

一見これは逃避行動のように思われるかもしれないが、心が洗浄を求めているだけだと思う。現実を見れば我が国に希望というものはほぼないに等しい。物質に於いても手に入れても虚無に帰すものでしかない。

しかし魂や想像は自由であり、時間制限はないものだ。

さあ、これから昔懐かしいテレビ番組OPでも探してみるか…。

※昭和感あふれるニュースのOP





Un Happy New Year?

あけましておめでとうございます、と素直に言えない。
なぜなら今年は福島原子力発電所が爆発して丸5年を迎えるからだ。

ここに来られる方はもうご存知かと思うが、旧ソ連時代、チェルノブイリ原子力発電所が核爆発を起こしそれが人体に影響を及ぼし顕現し始めたのが約5年後だ。

それが原因でこれからの日本人は生き方が何通りかに分離し、それぞれが違う次元に向かい、その次元は余程の事が無い限り交わる事は無いと思う。

自分とは異次元に向かわれた方を諭そうが何しようがもう手遅れだ。5年間何もせず何事にも気づかず無関心のまま過ごされた方、または恐れに正面から立ち向かわなかった者に施す薬はないに等しい。

私自身は上記のような方達を否定する気は毛頭ないし馬鹿にするつもりもない。
それはその次元の者達の生き方であり、長生きよりも太く短く楽しく生きる次元があってもいいからだ。眉間にしわ寄せながら長生きしたくない方もきっといるだろう。でも、調子が悪くなってから『聞いてないぞ!』なんて言った日にゃこっちは知ったこっちゃないヨw

これからの混沌とした時代を帆をあげて悠然と進んでいくには、自分自身のいまを結果としてとらえ受け入れる事が重要だ。この心を作るには自力本願独立自尊に尽きる。依存する者は必ず裏切られるという事を分かっていれば憤慨する事もないでのだろうが、外部に期待する者がここまでの強さを持っている事は稀だと思う。

これから多くの方達が混沌や異変に気付く事だろう。そして自分自身にも禍事に見舞われる確率は上がっていくと思われる。そうなったときの二段三段の構えをしておかなければこれからの世をくぐりぬけていく事は出来ない。自力を心身共に付ける事が大切だ。

サバイバルは物的なものだけではなく心にも構えが必要な時代に入る。覚悟を決めれば後は笑って過ごせばよい…と自分に言い聞かせて年始の挨拶としたい。

異形の王権

ブログ「人生は冥土までの暇潰し」の亀さんから先回の記事に対するコメントをいただいて異形の王権という本を薦められたので早速取り寄せようとamazonを見ていた。

511JNdz4cgL__SX324_BO1,204,203,200_

著者の網野善彦 氏の他の著書を眺めていたところ、中世の非人と遊女というのが妙に気になり、レビューを見てみると大変興味深いコメントが寄せられていたので引用させていただくことにした。

以下引用

この1冊を通して漠然と知ったのは、そういった人々が実は「穢れを払う」立場にいたこと。また、やはり定住せずに遍歴して生業を営んでいたこと。その場合、滞在するところは河原などの「無所有」の場。そういったところは「聖なる場所」と見なされていた、と言う。そして、穢れを払う彼らは、聖なる存在として認識されていたとも言う。そして同時に、それゆえに畏れられていたと言う。このことが聖別となり、後の差別に変わっていった要因のようだ。しかし、穢れを清める立場にいたが故にそれが畏れの対象となり、次第に忌避、排除の対象となっていくというのは悲しい話だ。

古代国家の制度が崩壊し始め、それらに変わる新たな時代が到来しつつあった時期に、職能集団としての彼らが誕生し、一時期は時の権力者によって制度的に組み込まれていたのは確かなようだ。それが鎌倉時代末から南北朝時代に入り、大きくなっていく過程で職能分化していった。分化した中で対立が起こり、穢れを忌避する観念が社会に浸透し、賤視・差別へと結びついていったと言う。あまりにも奥深い問題で、私には表面的なとらえ方しかできなかった…。


引用ここまで

審神・祓いの分野に興味のある私は、こちらにも大いにそそられた。
特に祓いとは、忌み嫌うとこでありながら人の避けられない業であるからだ。それは現代に於いては“不”の称号が与えられるものばかりであり負のイメージに覆われている部分である。
この業と向き合い和解するところに生きている意味さえ感じてしまうのだ。

非人や遊女の生きざまを普段の生活から窺い知れる事は今の世ではなかなかできない。
この隠れた部分に我が国の真実の一部が隠されていると私の尊敬する方々は一様に言う。

来年はここに焦点を当てていこう。

世の中が世の中だ。まずは健康第一、元気が無ければ本も読めない。
この世から“去る”歳にならないようにせねば…。

海洋民族に想いを馳せる

世の中どんな大学に行こうが、高度な勉強をしようが解決できない不思議な事があるものだと以下の画像を見て思う。
相似象
地名は私が付けたのだが、あっているかどうかなんて誰もわからない。
まあ、今日は波も無かったので暇潰しに作成、私が通う伊良湖の海は冬になると北西の風が波を抑え海が静かになるのだ。

その伊良湖だが、渥美半島先端に伊良湖神社というのがある。

伊良湖神社

由緒書き

由緒書きを見ると、伊良久大明神(いらくだいみょうじん)と書かれてある。
そこで先程の世界地図を見ていただいてもらうとわかるが、愛知県はイラクに位置しているわけで、「これは偶然か?!」と考えさせられたが、これについては解く事をひとまず諦める事にした。

それよりも、気になったのは元旦の「ごせんだら祭」である。以下、田原市観光ガイドより引用。

ルーツは海洋民族の儀式?

 大晦日から元日の早朝にかけて、伊良湖神社の境内で行われる火祭り。人々は、昔からこの祭に豊漁や無病息災などを祈ってきました。古くから伊勢・三河の海を駆け回っていた阿曇(あづみ)氏、海部(あまべ)氏といった海洋民族の原始的な儀式がルーツではないかといわれています。「せんだら」というのは、サンスクリット語で「南方印度(天竺)の賎民」を意味するといわれ、祭の名前からも、潮風にのり海を越えてやってきた海洋民族の名残を感じることができます。


せんだらとは「旃陀羅」と書き、日本の中世の一時期、被差別民にたいする呼称として使われていた語との事。
かつて、我が国の民族のルーツについて、さる筋より「被差別部落を知らねば解く事は出来ない」と聞いた記憶があるし、落合莞爾さんの本にも似たような事が書いてたかのように思うが、未だ整理がついていないのが現状だ。

今後の課題にしていこう。

<賎民についての参考文献>

喜田貞吉「賤民概説」
(青空文庫ボランティアの方々に敬意を表します)


民のかまどより公を想ふ その7

以上長々と公の事について述べさせてもらった。

半分以上は主観で記したものであり、真実を探りに来た方にはいささか物足りないものであったに違いない。舎人の方々、他関係者から聞いている『真実』については到底ネットで公に出来るものではないし、私自身が当事者でないのでそれを真実だと伝える事は差し控えたい。

それらは短期的に考えれば皇室を悪と捉える事も出来るしその逆もある。ただし、生まれてきて学校教育やマスメディアに刷り込まれた脳味噌の構造を完全に除去されてでもいない限り、その深奥の世界の隅を箸で突く様な事は公の場ではしない方がよい。せいぜい私の様に自分だけの土俵でひとり相撲を取るのがいいかと思う。

そんな大した事も知らない私が天皇陛下をなぜ誇りに思うか?
滅多な事では言挙げしない天皇陛下だが、私自身は所作や行動、実践でしか人を見ない。
言葉や文章というものは、その殆どが自らが抱えるコンプレックスや弱点を補う為に用いる手段であり信頼性は薄い。

今や嘘を振りまき官邸の犬となりつつあるマスメディアだが、画面に映った現象は嘘をつけない。その画面に映った政体と国体の違いを比較してみよう。

まずはゆるキャラなみの頭身でご登場の政体

実害を防止しながら風評被害を防止

次は、福島も体もアンダーコントロールに問題を持つ政体

実害を防止しながら風評被害を防止2

次は、捨て身の風評払拭



お次は国体側の仮設住宅訪問

仮設住宅にて民とのふれあい

避難所にて

避難所にて

天皇皇后両陛下の国民との距離、いつ暴漢に襲われるかわからないにも関わらず警護を両端に置かず、丸腰で民と同じ目線で接する御姿に何の嘘も感じない。

かたや政体側、「首相 福島 視察」で検索してみればわかる筈、相手出来るのは官ばかり。
そりゃそうだ、民を見捨てる政治しかやっていないのだから民の眼を正面から見られるわけがない。暴言でも吐かれればイメージダウンにもつながる(もうダウンしてるか…)

国体を護持すべく、皇室は今盛んに行動している。
ただ皇室は強要しないし支配もしない。選択肢は全て民の側にある。天皇陛下という存在をどう見るかがその人そのものだ。頂点に君臨する存在ではなく、魂の中にあるといってよい。だから本籍であると前項で述べさせていただいたわけである。

天皇陛下は人に違いないが、御神体の鏡と同じであるといっても過言ではない。そしてその存在をどう見るかがその人そのものであるわけだから公民一体なのだ。

私はこの考えを押し付けるつもりはないが、国体潰しの総仕上げが始まっているわが国を憂うが為、問題提起を含めつらつらと書かせてもらった。

以上、駄文ではありましたが、最後まで読んでいただいた方、有難うございます。

民のかまどより公を想ふ その6

ネトウヨはこのようにして「日本」や「日本的」を濫用する。

ここは日本にも関わらず、だ。
かつてよりこの内部にいるものはこの言葉を使う必要はないし、国旗や国歌にさえ拘る事はない。

例えば、改憲し戦争したがっている者の組織や商品の名前を見てみればわかる。

「日本会議」「My日本」や、日本賛美の書物・番組にはやたらと「日本」が枕詞として使われている筈だ。そしてこれらは近年押し付けがましく我々の眼に止まるようなところに設定されている。

彼らは『お前はそれでも日本人か?!非国民めが!!!』のフォーマットづくりに忙しい。

ただ気づいている者は多くいるようで、“日本賛美番組”と検索ワードを入れるとあとに“気持ち悪い”と出てくる。理屈抜きに体が反応する人は心身統一している証、正常だ。褒め殺しに対する防衛本能が発動している。

かといって左翼系が代替品とはならない。いつの時代もこの両翼はセットでなければ空を飛べない。



共産党の昨今の支持率や、強いる'sといった得体の知れない団体の知名度の急激な上昇がそれを示す。
共産党なんかは常に票や支持率に飢えているので、末端の党員は気持ちが昂揚しアドレナリンどくどくだろう。これで有名芸能人が支持なんかした日にゃますます戦闘的になるのは間違いない。すぐに浮かれるのがこの手の方々の悪癖だ。
『飛行機の胴体』は、この左翼の特徴である“公に認知されるとトランス状態に入る”事を明らかに知ってて仕掛けている。

この“航空会社”だが、今機長に今上陛下を据えようとしている。

本籍定まらない者達の暴走は浮遊霊よろしく霊障を振りまいている。
そんな事で成仏出来ると考えるくらいなら心の居場所を先に見つける事が先だ。

本籍を潰す事に精を出すとは本末転倒である。

続きは後日…

民のかまどより公を想ふ その5

天皇陛下を利用しようとしている連中で有名なのがネトウヨと呼ばれる思想工作員達だ。

以下は私が投げかけた問題提起に対し反応したネトウヨとの会話である。





と、まあこんな調子で自分の考えこそ陛下の本意であると言わんばかりの意味のわからない事を書き連ねていたので、私は以下のように返信した。



言いたかったのは但し書きの後に尽きる。

因みにこのネトウヨだが、以上の私のツィートを仲間に伝えるかの如くリツィートしていたが、最後のツィートだけはそれがなかった。余程目的を阻害するものであったのだろう。

このような輩を的確な言葉で嘲笑しているのが以下のツィート。



右翼の街宣車はつつましく生活している者からすればとてもガラがいいとは思えない。その車体から流れる大音響、そして愛国だの皇道だの書いてあれば皇室のイメージを貶めるのには難くない。もちろん右翼も全てが同じではない。本当に国を憂う志士もいらっしゃる。

ただ本物はそうそう表に出てこない。見ようとしても何らかの計らいが無い限り機会はそうそう訪れない。
皇統奉公衆や舎人といわれる方々は自ら表立って自己顕示はしないのではなかろうか?

偽物や安物は別だ。
特徴として押し付けがましく派手で相手から攻めてくるのだ。訪問販売やNHKに宗教勧誘、ディスカウントショップの看板や広告をみればわかると思う。
しかし面白いもので、偽物や安物には大体シッポが出ている。一例だが、以下の笑顔を「美しい日本」を作る表情とそのまま受け取れるだろうか?



続きは後日…

民のかまどより公を想ふ その4

裏の沙汰とは、任侠ヤクザが激減した事による弊害だ。

恥や美徳といった曖昧なルールにより秩序が保たれ、それらを破った者に対する制裁は厳しいものであったとは思う。
だが、それにより禊は完了し過去は水に流していた。

ところが今はどうだ?裁きは全て情の無い法律というものにより行われている。
この法治国家の確立により、恥や美徳は良心の基準とならない、と勘違いする者が随分と増えた。法律を守っていれば文句を言われる筋合いはない、といった風潮だ。

※こんなのや、

ヨレヨレの文化

こんなのも含む。

ガタガタの内閣人事

ルールという枠の中に嵌められ恥も外聞もないモノが世の中に量産され続けた挙句、道のど真ん中を闊歩する者・パンツ丸出しでスマホをいじる女子高生・ゴミをポイ捨てする輩などが当たり前のように目につくようになった。
さらに、親に手を挙げる子・子を殺す親・弱者から盗みをはたらく者と、恥のかけらもない事件が当たり前に起こっている。
政治に至っては下着ドロボーが大臣になれる始末(税金ドロボーもいっぱいいるが…)



法律を遵守するものは善(神)であり、破るものは悪(魔)という一神教は見事に我が国を染めたのだ。
その排除主義的な思想さえあれば、他国の悪口を拡散するだけで戦争という手段により悪を懲らしめる方へと誘導出来る、戦争屋にとって都合のいい状態となるわけだ。

ただし、戦争屋は事を起こした後罪人扱いされたくないので誰かにそれを被ってもらわなくてはならないと考える。その誰かこそが天皇であろう。

続きは後日…

«  | ホーム |  »

検索フォーム

全国の天気

今日の暦

今東光 「極道辻説法」&「和尚の遺言」

最新トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。